
尾崎は現代の若者に受け入れられないなどと学者が新聞で分析しているのを読んだが、これは、まったくあたっていない。
姿はなくても尾崎の洗礼を受けたミュージシャンたちによって、尾崎の仏教・儒教をベースとした歌詞は、「生きる意味とは?-そばにいるよ。-あるがままでいい・・・」など独自の世界観を通して、今に継承されているのである。
裾野が広がっていると言っていいだろう。
青山テルマの「そばにいるよ」が着歌でNO.1になっているそうだが、尾崎の「路上のルール」にリズムやスタイルがそっくりである。
男と女がコミュニケーションを取りながら歌うあたりにも尾崎のコンセプトを継承している跡が伺われる。
「そばにいるよ・・・」という歌詞は、尾崎の「永遠の胸」の最後の部分にも使われている言葉であるが、これは「声聞縁覚」という仏教用語を表現したものだ。
槇原敬之の「世界にたったひとつ咲く花 いろんな花があっていい・・」という歌だが、これも尾崎の影響が強い。
金子みすずの詩にも「私と小鳥と鈴と」のなかで「みんな違ってみんないい」と結ぶものがある。
それぞれに尾崎との共通項を感じるが、これは仏教・儒教思想が背景にあるから似ているのである。
実は尾崎自身、儒教の教えである「論語、孟子、大学、中庸」を研究し作品のベースにしている。
つまり尾崎の洗礼を受けたミュージシャンの歌は、仏教や儒教の教えを表現していることになる。
だから癒されるし、なんとなく似てくる。
尾崎っぽい詩というのは、この宗教性にあるのだ。
こうしたシンガーソングライターは過去にいない。
尾崎の創り上げた独自の表現の世界である。
尾崎は単なる歌手ではなく、一曲一曲仏教・儒教をベースに丁寧に深く掘り下げて、作品作りに挑んだチャレンジャーであり芸術家だ。
妥協のないすばらしい作品を作る人に悪人はいない。
作品は、自分と向かい合っている為、自分をごまかす人に、いい作品はつくれないのである。つまり作品にその人の生き方が出るということだ。
人間関係も国と国との関係も、関わりながら、互いに育んでゆくことが重要で、単純な答えはないのです。
互いの正義を認め合う。誰しも他人の心の聖域には、入ることはできません。
尾崎は、エッセイ「祈りの手の中」で、そのことを強調しています。
そこを認め合うことが平和への祈りにつながって行くのです。
世界の人々に尾崎豊の歌を伝えることは、世界が平和になり人々が幸せになるということでしょう。
教育に尾崎豊の歌を使うことは、まちがっていないのです。
世の先生と言われるかたがた、今宵は、ぜひ尾崎豊の歌に耳を傾けてみたらいかがでしょう。
きっと答えが、出るはず・・・。尾崎ファンの皆様。君たちの感性もまたすばらしいのです。
尾崎の歌が好きな人に悪人はいないこと、おわかりでしょう?
自信と誇りをもって、尾崎豊と歩んでくださいね。
尾崎豊さんは、いつでも現在進行形、永遠に今なのです。
共に精一杯今日を大切に生きましょう!